第四章 ナバホ族の嫁になる

Native American

まだ全然落ち着く様子のないアメリカのコロナ。独立記念日の祝日である今週末。どこか出かけたかったけど、どこも人が移動して多くなりそうだし、行った先で人が多くてストレス過多で楽しめないと嫌だし、おとなしく家でステーキでも焼くことにします。

 

さて私を変人たらしめている、ナバホ族のダンナというここは本当によく聞かれる話。

これから、出会いを聞かれたらブログ読んでって言うことにします(笑)

1章から3章まではこちら。

第一章 アフリカを目指す
生い立ちの期って昔、書きませんでした? コロナで考える時間がたくさんある今、自分の過去を振り返っている人もとても多いと思います。 私の過去を小説風?エッセイ風?に書いてみようチャレンジ。(誤字脱字は先に誤っておきます) ...
第二章 社会を学ぶ
古着屋のサムタイムズストアの店主、ゆりちゃんがラジオでめちゃくちゃこのブログの宣伝してくれていたのにもかかわらず、いつもと違う私の一生シリーズを書いていてすみません。。。 ネイティブアメリカン関係は過去ブログにいっぱい書いているので、...
第三章 アメリカ駐在員生活
こちらはまだ続くプロテストとコロナの中、ほとんどの店が気をつけながらの再開をしています。急に打って変わって、感染の数字にとらわれずどんどんみんな外に出始めている感じ。 学校や子供のサマースクールは9月まで皆無なので、子供との生活のバラ...

ダンナとの出会い

最初の一年間の駐在ではまだ旦那には出会っていませんでした。いったん帰国したりメキシコに出張に出たりしながら駐在が半年延長になり、相方であるゆかりさんが日本に帰り、新しい人と駐在生活を送っていました。旦那に私との出会いを聞くと、私がゆかりさんとルート66を歩いているのを見た!それが俺の初めての出会いだ!と言い張るのですが、そもそも私はその時会話したわけでもなく、サンシャインリーブスが「こいつもジュエリーアーティストだよ」と言って連れてきてくれたのが最初でした。スティーブは仕事以外でもご飯に行こうと私たちを誘ってくれて、キャンプに連れて行ってくれたり、ジュエリーショー終わりに一緒に飲みに行ったり、仕事仲間っていうより遊び仲間という感じ。あまり深い話をするわけでもなく、ただ遊ぶのが好きなやんちゃなオジサン。今はその影もないかもしれないけど、昔はかなりの遊び人だったらしい。クラブに連れて行ってくれたり、おいしいステーキ屋に連れて行ってくれたり、私たちに新しい世界を見せてくれました。

スティーブとそうやって遊び始めたのは私があと半年足らずで日本に帰国すると決まっていた時でした。今後どうしようか?という話の中、私はビザがないとアメリカには居られないからとりあえず結婚を目標に付き合ってみようということになり、その状態のまま私は帰国。東京での本社業務に戻ることになります。国際結婚の多くのカップルがそうなように、日本人の私がアメリカに滞在するにはビザの問題があり駐在の時に入管で何回か別室行きになっているので、本当にビザ問題は考えるだけで今も胃が締め付けられるあの感じがよみがえってきます。

結婚するということよりも、ビザが取れるかどうかという実務の方が私の中では大きな問題でした。一年半アメリカに滞在している間、仕事に悩んだことはあるけど日本に帰りたいという気持ちは全くなく、どういう形であれアメリカにいたいと思ってずっと付き合っていた彼氏とお別れしたし、海外が私の居場所なんだという感じはすごくしてましたが、ビザの問題でアメリカに居座ることは完全に諦めていました。なのでスティーブとの今後を考えるにしても、ビザもないしとにかく休みに行き来したり電話をしあって決めていくしかない、そんな状況。有給と土日を使って安い時期にチケットを取り、滞在2日間とかでアメリカに行き、私が仕事の間のアパートにスティーブが何泊かしたこともありました。格安の国際電話のプリペイドカードを買って毎日電話して、今後のことを決める。一年近くして親にスティーブに会わせたいと言ったら断られたこともあったし、最終的に婚約者ビザを取ると決めるまで二年ぐらいかかったかな。それから仕事終わりに電話をしながらお互いの分厚い書類を進め合い、この時に何回もお互いめげそうになって、無事にビザがおり、2011年の1月に再び渡米。最初は猛烈に反対していた親も最終的には理解せざるを得ない状況になり、2011年5月には日本の家族も来てナバホ式ホーガンで結婚式を挙げるのでした。

「よくナバホのオジサンと結婚しようと思ったね、すごいね」って言われることはありますが、アメリカで国際結婚している人の多くが、それしか一緒にいられる選択肢がないからそうするしかなかったという答えを出すと思います。文化の違いや環境の違いは乗り越えられると思ったし、何よりもこの人の生きる力はすごいと思い、自営業でお金が心配とかそういうレベルじゃなくてこの人ならどんなことがあってもまぁどうにかしてくれると思った気がします。でも結婚前に考えたのはこの人と一緒にやっていけるかどうかよりも、追われるビザの書類の実務。国際結婚してる友達とも共感する部分が多いのは、案外ロマンチックではないという事実。無事ビザが下りてアメリカに入っても、半年したらまた大量の書類と戦ってグリーンカードの申請をしなければいけないので、ようやく落ち着いたのはそのあとでしょうか。

アメリカに住む

結婚したのは28歳の頃。ただ無我夢中で目の前のことしか考えていないままナバホ族の嫁となったのですが、家族として一緒に住むとなるとまぁいろいろなことがあったと思います。でも過去の記憶力が極端にない私は、あまりこれがものすごく大変だったという覚えはありません。しいて言えば、ダンナのお母さんはすでに亡くなっていたので、ダンナのお母さんがいたらもっと色々教わることができたのになと思うことは今でも多々あります。

親日家は多いけれどやはり第二次世界大戦の敵国であった日本人と結婚することは気にかける人がいるかもしれないと、ダンナはお母さん代わりであった叔母さんに質問したそうです。その叔母さんの旦那様は第二次世界大戦で戦死しているのですが、「日本人と結婚しようと思うんだけどどう思う?」と聞くと「戦争は個人の意志ではなく政府の強制で行ったもの。そこには日本人の意志も、アメリカ人の意志も、ダンナの意志もないから気にすることはない。個人の意思があったら、だれも行かないから。」と言ったそうです。そういう素敵な考え方をする人もダンナの家族には多くいて、私が誰を連れてこようと、あの子は元気にしてる?と私の友達まで心配してくれる人たちで、仕事を通して知り合った人、家族、一緒にいた駐在員、ダンナを通して知り合った仲間たちに支えられて今があります。

そして仕事の面では、2010年10月にダンナ、スティーブの導きのもとに(笑)、現ギャラップトレーディングの店舗がアメリカ支社のものとなり、歴代の駐在員自宅兼職場での買い付けから、トレーディングポストの運営兼商品バイヤーという、新たなステップへと踏み出していました。

今まで「日本から来ている若造バイヤーの一人」だった私がナバホ族のアーティストの嫁となることで、作家からの目もかなり変わりました。作家や現地のトレーダーの間では商品を安く買うため、とかアメリカ国籍を取って店を有利にするため、などの政略結婚説がかなり出回っていたようです。(政略結婚でどんな利益が私にあったのかをぜひ教えてほしい!)

でも確かに日本人の20代女子とナバホ族の40代オジサンが結婚したら、え?理由は何?って思いますよね。当の本人はそんなこと言われているとも知らず、毎週末馬に乗ってのほほんと自然を楽しんで生活していましたが、やはり公私混同しないようにはかなり気をつけていて、プライベートの姿はなるべく見られないように、話さないようにしていました。私がいるからダンナの商品ばかり買う、とかダンナの友達だから買ってるとか言われるのは癪に障るので、ダンナの商品の買い付けは私以外の人にやってもらっていて、そこは結構ちゃんとしていたと思います。だから未だに私が前面に出ることや、スティーブの妻でーすって公で言うにはとても抵抗があって、今でこそダンナの商品は私も宣伝しますし夫婦の会話は仕事のことばかりですが、その当時は仕事のことはほとんど話さなかったし、ダンナが商品を作っているところを見ることもほとんどありませんでした。その時は仕事は仕事って割り切っていて、それでバランスをとっていたのかもしれません。

人との距離感

私がいろいろな意味で力強くなったのは、やはり出産を経験してからです。分からない医療英語、緊急帝王切開、突然の発熱、ベビーシッター探し、など、文化や言葉が分からなくてもどうにかしなければいけない状況が毎日降りかかってきて周りの目を気にしている場合じゃなくなるし、いちいちへこたれていられなくなりました。さらに二人目が生まれたら、もう性格がすっかり変わってしまいました。周りに頼ることを覚え、適当を覚え、自分をさらけ出していくことを覚えました。アメリカに住んで日本に帰ると、「変わったね」って言われることが最初は恐怖で仕方なくてなるべく変わらないようにしたいと思っていたけれど、環境はどんどん変わっていく中で自分が変わらないことなんて不可能なので、今は「変わったね」は誉め言葉だと受け取ることにしています。

アメリカに住んで一番自分の中で変わったと思うのは、人との距離感。

「そのジュエリーかわいいね!」「ありがとう、ダンナが作ってるの!」

「え?名刺ある?」「うんインスタ交換しましょ」

っていうスーパーのレジ待ちでの会話。これに店員さんが混じることとかもある(笑)

今日初めて会った人の人生相談を聞いたり、子供の学校の先生に私生活の愚痴を言ったり、アメリカ人の人との距離感になってきたなと、これは自分でも明らかに感じる変化です。もともととても人見知りな性格だったけど、「人見知り」「クール」「無口」「空気で察して」じゃ生きていけないアメリカ。ダンナは総じて私と正反対の打ち解け型、ぶっちゃけ型の性格なので、見ていてすごいなと思い、いつもケンカするのはこのコミュニケーションが問題です。このブログでも何回か書いているけど、最初の3年はきつかった。思ったことを言えないもどかしさや、お互いに歩み寄る距離感を探りながらバランスをとっていった3年間。でもなんだかんだダンナの人脈には本当に仕事では助けられて、今のギャラップトレーディングの店もダンナがいなければ私が働くことはなかっただろうし、思いついた時の行動力はすごい。細かいことへのこだわりはそばで見ていると面倒だと思うけど、やっぱり職人の血は私生活からも影響してくるものなんだなと今では思えます。

 

第五章 ニューメキシコ州にいる現在
ニューメキシコ州は完全なる第二波で、再びレストランの店内飲食禁止のお達しが出ました。少しは落ち着いてくれないと、店もまた閉めなきゃいけない状況になっちゃいそう。 とにもかくにも会いたい人に直接会えない状況が、早く改善するといいです。 ...

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