第一章 アフリカを目指す

お絵かき日記

生い立ちの期って昔、書きませんでした?

コロナで考える時間がたくさんある今、自分の過去を振り返っている人もとても多いと思います。

私の過去を小説風?エッセイ風?に書いてみようチャレンジ。(誤字脱字は先に誤っておきます)

 

第一章 アフリカを目指す

5歳の頃からトラウマは給食

高知県の田舎から集団就職した父と、その地元の企業で事務として働いていた母の典型的な団塊世代のサラリーマン家庭に生まれた私。ニュータウンと呼ばれる新興住宅地は同年代の子供たちであふれた団塊の世代。地元の公立幼稚園へ行き、小学校と中学校はみんな同じ仲間で、その後受験をして高校へ行き、大学へ。いたって平凡な普通の進路を歩んできました。

一番最初の思い出は何かなぁって考えたときに、強烈に覚えているのは給食のこと。幼稚園年中の時、先生に「給食を残していいですか」と聞きに行こうとして、途中でその給食箱をひっくり返してしまってめちゃくちゃ怒られたという記憶。給食を食べるということが本当に苦手で、昼食の時間が近くなるともう吐き気がするぐらいに嫌だった。掃除まで残されることはしょっちゅうで、嫌いなものはよく机の中に隠していました。

今も変わらない苦手なものは、「怒られること」と「プレッシャー」。食べなさいと言われるとそのプレッシャーで吐き気がしてくるし、食べないと怒られることが最高に怖かったのでさらに吐き気がする。それは成長期前まで続いたかな、まぁ今では食べることは生きがいでそんな過去の影はありません。

周りのみんなと同じように、ピアノ、習字、陸上、水泳を習い、どれもそれなりにはやったけどみんな普通。その中でも水泳はその後金メダリストの岩崎恭子を生み出すコーチに厳しく当たられ、それでも親に辞めたいとは言い出せず小学校5年で初めて更衣室でクラスをサボるという行為に出たこともあります。

ポケベルが欲しくて親におねだりして買ってもらったり、マライアキャリーのCDを好きだった子からもらい、グループデートで映画に行く、そんな時代。

小学校ではミニバスに入り、そのまま中学校でも同じ仲間でバスケ部に入ると挙手でなぜかキャプテンに選ばれるという始末。一個上の先輩のチームは強豪だったにもかかわらず、わがチームは一回戦に勝つのも五分五分で、さらに中3の春にはマラソンの練習をサバ読んでいたことが監督にばれて激怒され、しばらく練習を見てもらえない、そんなこともありました。なんとなくみんながそう言っているからと周りに流されて練習のサバを読んで監督に勘当されたという、キャプテンだったとは自慢すらできない過去です。最終的には最後の大会で、強豪と言われた先輩たちが前年に負けてしまった一中に勝つことができて監督はよくやったと言ってくれてなんとか丸くおさまりましたけど。

チームプレイは私には向いていないとバスケをやりながら思っていて、高校に入ったら絶対に陸上をやると決めていました。そして高校で陸上部を志望したら、なんと新入部員の女子は私一人。新入部員のトレーニングは男子が多分10人ぐらいと私女子1人。それでも辞めなかった私はやっぱり変なやつだなって今は思いますが、その間に女子の先輩ととても仲良くなり、後に同学年の女子3人が入ってきて私はまぁまぁ普通のやつになったかと思います。

でも、その高校の陸上部って全然花形の部活じゃなくて、女子バスケ部がモテ女がたくさんいる花形の部活。私が好きになった人も女子バスケ部の子と付き合ったりして、あーバスケ部入ってたら私の人生変わってたかなとか思う時期もありました。

淡々と勉強をして高い点数を取るという自分へのチャレンジは昔から好きで、ピタッと答えが合う気持ちよさが何とも言えず快感だったので勉強は好きでした。受験する公立高校を決めるとき、No1の高校とNo2の少し遠い高校で親も悩み、私はNo2の高校を選びました。その受験のテストでの成績がよかったらしく、新入生代表で挨拶をさせられる羽目に。のちに母はあの時どうしてNo1の高校を選ばなかったんだろうと後悔していましたが、私は秀才のいっぱいいる都会の高校よりも通学時間がかかった制服が異常にダサい富士山の近くの高校に行けたことを誇りに思っています。

それなりに成績はよかったですがとびぬけて秀才なわけではないし、それなりに運動も好きだったけど鳴かず飛ばずだったし、好きな子にも話しかけられないような臆病者だったし、作文や絵は本当に苦手で賞をとったりしている人が信じられなかったし、とにもかくにも本当に普通、でした。

今の私に通ずる本との出会い

科目の中でも、英語と世界史が好きでした。世界史の中でもカタカナばかり並ぶ欧米史には全く興味がなく、心が動かされたのは途上国の歴史や宗教のこと。中学三年生で受験の準備をする中、課題図書で出会ったのは黒柳徹子さんの「トットちゃんとトットちゃんたち」でした。飢餓問題が世界的に非常に注目されていた時代、食べ物がなくて死んでいる人がいるという事実が衝撃的だったのを今でも覚えています。

「こんなに給食で食べ物が余っているんだから、それを飛行機で送ればいいじゃないか」と本気でそう思っていました。英語や世界史の先生の指導もあり、大学の進路は「国際学部」を選びます。

地元を出て、一人暮らし。栃木県宇都宮市の大学に行くのですが、国際学部はフライトアテンダントとか旅行会社を志望する「国際文化学部」というのと、環境やボランティアなどを中心とする「国際社会学部」というのに分かれていて、もちろんそれも花形はどっちかというと「国際文化学部」

都会にある華のある高校を選ばず、大学を落ちていたら東京の明治学院だったのに栃木県に行くし、華がある場所にはつくづくいけない人生なのかも、と書いていて思います。そもそも華のある所には興味があまりないのかもしれませんが、その反面やっぱり活躍していて華のある人にはとても憧れます。

私の初の海外旅行は大学一年生の時。フランス語のクラスで友達になった子と二人でフランス旅行。でっかいスーツケースをゴロゴロしながらマルセイユを歩いていたら「スーツケースを持ってあげるよ!ホテルはどこ?」という若いお兄ちゃんたちが現れて、そのお兄ちゃんたちが私たちのスーツケースをもってホテルとは違う方向に歩いていき、たまたまいた警察に捕まえてもらうというハプニングがありました。海外旅行でのハプニングはいろいろあるけど、今思えばあれは結構衝撃的でした。

残念ながら華やかな欧米の文化には心を打たれた覚えはあまりないのですが、これを機に学生時代はパチンコ屋や焼き肉屋でバイトをしたお金で定期的に旅行をすることになります。西表島、インドネシア、小笠原諸島、インド、オーストラリア、自転車で一日かけて旅をした時もあったなぁ。

国際社会学部のもとでボランティア活動やNGOなどを勉強していく中、ついに海外研修に自分で行ってきなさいという課題が出て、その目的地は私の中ではただ一つ、アフリカ。ずっと行きたいと思っていたアフリカ、物理的に遠いアフリカは絶対学生の時じゃないと行けないと思っていたし、行くならできるだけ長く行きたいと思っていました。

そしてケニアで遊牧民のための学校を作っているというボランティア団体に参加し、一か月をアフリカで過ごしました。そのときにいた三人の若者ボランティアと星を見ながら宇宙の話をしたこと、お祝いだと言って普段は食べることがない鶏をさばいてくれたこと、夢だった野生のキリンを生で見れた感動は今でも覚えています。そしてなんというか、日本人からすると信じられないぐらい適当なアフリカ人の人たちと会う中でこういう人たちと私は結婚したいと本気で思い、同時に、外人がやってあげるというボランティアの限界みたいなのも感じました。

カッコいいと思って全身にヘナタトゥーを入れて帰ったら、華のある友人たちには軽蔑のまなざしで見られ、やはり変人扱いは続きます。

 

 

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