第三章 アメリカ駐在員生活

お絵かき日記

こちらはまだ続くプロテストとコロナの中、ほとんどの店が気をつけながらの再開をしています。急に打って変わって、感染の数字にとらわれずどんどんみんな外に出始めている感じ。

学校や子供のサマースクールは9月まで皆無なので、子供との生活のバランスを取りながら仕事をしている状況です。

さて、自伝の続き。第一章と第二章はこちら。

第一章 アフリカを目指す
生い立ちの期って昔、書きませんでした? コロナで考える時間がたくさんある今、自分の過去を振り返っている人もとても多いと思います。 私の過去を小説風?エッセイ風?に書いてみようチャレンジ。(誤字脱字は先に誤っておきます) ...
第二章 社会を学ぶ
古着屋のサムタイムズストアの店主、ゆりちゃんがラジオでめちゃくちゃこのブログの宣伝してくれていたのにもかかわらず、いつもと違う私の一生シリーズを書いていてすみません。。。 ネイティブアメリカン関係は過去ブログにいっぱい書いているので、...

第三章 アメリカ駐在員生活

アメリカ行きを決める

実家で一年間過ごし、また東京に出ることを決めました。

どんな仕事をしているときでも誰かの役に立つ仕事がしたいと心の中ではずっと思っていて、それを先輩に言ったら「税金を納めることで誰かの役に立っているんだよ」と言われたけど全然腑に落ちなくて、心のどこかでお金という対価だけじゃない何かを求めているのは今も変わらない気がします。でもこの歳になれば結局すべては自己満足だよという人の意見にも納得できます。

日本語教師の資格を取るというのは会社を辞める口実でもあり、誰かの役に立ちたいという気持ちが後押ししたのもあり、仕事で日本語を使う人や学生じゃなくて出稼ぎ労働の外国人のような本当に日本語教育が必要な人に日本語を教えたいと思っていました。そういう人たちへ教師を派遣している会社に入るのですが、教える側だと思っていたけれど経験もない素人がすぐに教壇に立てるわけがなく、職種の中で私が一番苦手であろう営業に配属されることとなりその会社はすぐに辞めてしまいます。

その時にマライカの上司に連絡を取ったのか記憶はあいまいなのですが、店舗でバイトすれば?みたいな感じで食いつなぐために浦和の店舗で店員として出戻り、その時ちょうど店長問題でもめている時で、少しの間店長という立場で働かせてもらいました。年末年始に朝日と共に出勤して声を張り上げて福袋を売り、別の会社のお偉いさんに挨拶をしたり売り上げを管理するという責任感はここで生まれ、他のスタッフたちとどううまくやっていくかというのもここで少し学びました。当時はまだ、会社の上層部はいったん会社を辞めた人が出戻るというのはご法度という風潮の中、許可してくれた上司には感謝してもしきれません。

そんな中店舗にその上司からかかってきた電話が私の人生の転機となります。「アメリカに駐在員を置こうという話があるんだけど、行かない?」とりあえず期間は半年後ぐらいから一年間。「ちょっと考えさせてください。」と言って電話を切ったその光景と心臓のバクバクは今でも覚えています。その時長い間付き合っていた彼氏がいたし、家族にも相談したほうがいいと思っていったん考えると言ったものの自分の心の中ではもう行くと決めていた気がします。

仲良くなったお客様や店舗のスタッフとお別れし、アメリカでの駐在生活が始まることになります。

すったもんだありました

一緒に駐在員となるゆかりさんとは、成田空港で初対面。でっかいスーツケースを抱えた若造女子二人と上司たちでギャラップに行き、家を決め、折り畳み式の電話をもらい、銀行口座を開設し、車を手配し、帰りに上司たちを空港に送るときアルバカーキの夜景を横目に「きゃー怖い!」と言いながら初めてアメリカで運転をしました。まさに右も左も分からないところからのスタートってやつで、英語もそんなにしゃべれなければコネがある訳でもなく、まさに手探り。GPSなんてない時代なので、ガソリンスタンドで買った地図にここにはスーパーがあるとか、ここで国際電話のプリペイドカードが帰るとか丸をつけて生活を成り立たせていきました。レストランに行き売りに来る作り手に話しかけて商品を作ってもらったり、材料屋さんの外で待ち伏せしてそれっぽい人がいたら声をかけたり、ハリケーンの中車を走らせオクラホマのショーに出かけたり、とにかくいろいろな場所に出かけて野生のカンと口コミで仕事を進めました。

初めて行ったジュエリーショーはアリゾナ州フェニックスのハードミュージアムショー。そこで初めて、アーティストというクラスの人であるゲーリーリーブスと出会います。今まで買っていたものの何倍もの価格がするリングをドキドキしながら一つ購入し、連絡先を聞くのに必死でお金を払い忘れるというハプニング。彼がサンシャインリーブスに会わせてくれて、サンシャインリーブスがスティーブアルビソに会わせてくれました。困ったときにはとにかくゲーリーに言う、そんな存在で、引越しを手伝ってくれ、誕生日にはドーナツを差し入れしてくれ、来るときにはコーヒーいるかと電話をくれる。その後たくさんの駐在員が派遣されることになりますが、彼ほど誰とも心が近い存在であった人はいないかもしれません。ぶっきらぼうで冷たそうだけど、心はとても温かく心配性。時にはとても駄目な人でもあり、その反面ジュエリーのデザインセンスは本当にすごかった。彼は2014年に急逝。これもゲーリーリーブスらしいなと今思えば言えるのですが、ずっとオーダーしていたピアスを一度も私には作って持ってきてくれることはありませんでした。ところが彼が亡くなる3日前、突然ピアスを持ってきました。彼の訃報を聞いたとき私は友達と外出中。これもすべてゲーリーには見えていたような気がしてなりませんでした。と同時に、こんなに日本中で愛されたジュエリーアーティストの最期に、日本人は私一人しか立ち会えないというバイヤーを背負うことの責任感も強烈に生まれました。今も辛いときには恋しくなるゲーリーの姿、たくさんの宝物を残していなくなってしまった彼は、「レジェンド」という称号を手に入れたんだと思います。

引越しを手伝ってもらったという話で、信じられないエピソードがあります。最初借りた家での話。私たちが住み始めたのは1月で、とても寒い時期でした。そこで若造女子二人は仕事を進めながら、共同生活をしていました。住み始めたときから私の寝室には天井にシミがあったのですが、そのシミがどんどん大きくなり、大雨が降った次の日なんと天井が抜け、大量の水が落ちてきました。今まで生きてきて、天井が抜けるってことありました?私はこの時が初体験でした。慣れない英語で不動産屋に電話。「Roof is falling!」(天井が落ちている)書いていて笑いが止まらない。。その日はホテルを用意してもらい、そこで初めて生中継でのアカデミー賞を見たことは一生忘れないでしょう。

少しずつ環境に適応していきましたが、最初は英語が話せると言っても90%はカンで会話している感じでした。毎日とにかく時間だけはあったので、一日10個新しい単語を覚えると決め、あの箱型テレビで洋画を字幕で見まくり、ネイティブアメリカン関連の英語の本を読み漁って勉強しました。ネイティブアメリカンの人たちは基本英語は第二言語なので結構聞き取りやすいし、やはり基本は「買ってもらう側」なのでこちらが分かっていない様子でも丁寧に説明してくれる人が多いと思います。週末はいろいろなところに出かけ、仕事に悩むときもあったけれど新しいカルチャーを楽しんでいた、そんな一年間でした。

 

第四章 ナバホ族の嫁になる
まだ全然落ち着く様子のないアメリカのコロナ。独立記念日の祝日である今週末。どこか出かけたかったけど、どこも人が移動して多くなりそうだし、行った先で人が多くてストレス過多で楽しめないと嫌だし、おとなしく家でステーキでも焼くことにします。 ...

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