ネイティブアメリカンとアメリカの歴史、後編

Native American
かなり面白い、スペイン人が来た理由
ネイティブアメリカンの歴史を語る上で欠かせない「スペイン人の入植」という言葉。 まずそもそもの疑問、「なんでスペイン人?どっから来た?」 これが結構面白いので解説します。 トルデシリャス条約って知ってます? ...
ネイティブアメリカンとアメリカの歴史、前編
先日の記事を書いていて昔のノートを引っ張り出して復習していたら、歴史について少し書いておいた方がいいなと思いました。 この話は↑の記事の続きで、スペイン人がアメリカ大陸に入ってきてからの歴史。 歴史とか難しい話に...

 

今までのこの記事ではスペイン人とプエブロの人々しか今のところ登場していませんが、ここからアメリカ、ついに白人さんたちが登場して、もっともっと歴史の勉強っぽくなってきます。

 

1754-1763 フレンチーインディアン戦争

日本語では北米植民地戦争と言われる戦争。

この時期、現在のアメリカの領土は「イギリス領」「フランス領」「スペイン領」と別れていました。

ブルーがフランス、東側のピンクがイギリス、西側のサーモンピンクがスペイン領です。

この植民地を巡ったフランスとイギリスの戦いで、このブルーの部分の北半分をイギリスが握ることになり、イギリスの支配下となります。(この時点で、真ん中部分はまだフランス領。)

※まだニューメキシコ近隣は相変わらずスペイン領です。

 

さて、ここから一気に色々起こります

 

1755-1783 アメリカ独立戦争

これと同じ時期、もともとイギリス領であった13の植民地がイギリスに対して独立戦争を起こします。そして、アメリカが誕生します。イギリス領であったアメリカ東部の話ですね。

1803 ルイジアナ買収

独立したアメリカ。

そのアメリカがフランスからこの真ん中の緑の部分、210万km2を超える領地を1500万ドル(現金1125万ドル + 当時の借入金375万ドルを帳消し)で買収しました。

そこでついにニューメキシコの北部がアメリカの国になります。が、相変わらず緑にかかっていないところはスペイン領でスペイン人に統治されていました。

1821 メキシコがスペインから独立。

メキシコがスペインから独立し、ニューメキシコ近辺のスペイン領だった場所が、「メキシコ領」へと移ります。ここでついにメキシコが登場。独立していたテキサス部分は「テキサス共和国」となっていましたが、1836年にメキシコから独立し1845年にアメリカに併合されました。

1846-48 米墨戦争

テキサスの独立や領土についての食い違いがあったメキシコが、アメリカと戦い、メキシコ領土だった一部をアメリカに割譲することになります。

↑この赤の部分が割譲され、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアの大部分がついにアメリカとなります。

さらに1849年にはゴールドラッシュ!白人さんたちがどんどんとこの地域に入ってくることになります。

 

1853 ガズデン購入

その後、ガズデン大統領とメキシコの取り交わしにより、この黄色の部分をアメリカがメキシコから購入。

フェニックスを下がり、ツーソン付近に行くと急にメキシコっぽいのはそのためかもしれませんね。

こうして領土がアメリカにわたり、スペイン人VSネイティブアメリカンの戦いから、白人VSネイティブアメリカンの戦いへと移っていきます。

1849 和平条約、南北戦争

プエブロの人々はそのまま制圧していたけれども、ナバホ族、アパッチ族の制圧には成功しておらずアメリカに覇権が移ったその後もまだいろいろなチーフたちと和平条約を結びながら制圧しようと試行錯誤していました。アパッチ族の人を殺害して頭の皮一枚持ってきたら政府が10ドル報奨金をあげる!なんていうこともしていました。

ここでいう「和平条約」は、アメリカ政府が年金、食料や物資の配給することと引き換えにネイティブアメリカンを指定保留地(リザベーション)へ定住させるというものです。

1846-63 和平条約を結び続ける

数々の和平条約を結んでも、他のチーフからの攻撃が続き、ネイティブアメリカン戦士たちの反乱はやまず、1859年にアメリカ軍の少佐がナバホ族に殺害されたことで激化、アメリカ軍は「1862年までに武力で支配する」を目標にネイティブアメリカンと戦います。(ここには、金鉱があるかもという別の目的もあったようです。)

 

1863 奴隷解放、焦土作戦

同じころ南北戦争が終結し奴隷解放宣言をしたリンカーン。

一方で、ネイティブアメリカンに対しては「降伏か、皆殺しか」というネイティブアメリカン支配を進めます。リンカーンは「民族浄化」を合言葉に、ネイティブアメリカンを支配していきます。

土地を焼き払う焦土作戦でナバホ族の家と畑を燃やし、家畜も没収や殺害したのを指揮したのはKit Carsonというニューメキシコ地区の新しい連邦司令官。この彼のもと、激しい戦いが行われます。

 

1864 ロングウォーク

ナバホ族の歴史には絶対に欠かせない「ロングウォーク」が起こるのがここです。

その時のチーフ、マニュエリトがいたナバホ族の本拠地とされていたCanyon De Chellyをカーソン軍が襲い、そこにいた8000人のナバホ族は強制的に移動させられる、その事件のこと。

そこから20日間、約480キロという距離を移動させられ、少なくとも2000人以上が亡くなり、残りの人々が収容所に入れられました。

※これはナバホ族のすべての人口ではなかったため、反乱も後を絶たなかったようです。

1868 Navajo Treaty、条約の締結

その結果、ナバホ族はアメリカ軍と「条約」を結びます。この条約は和平条約の時と同じ。

アメリカ政府が年金、食料や物資の配給することと引き換えにネイティブアメリカンを指定保留地(リザベーション)へ定住させるというもの。

今でも、ナバホ族の人々が土地、家畜や食料、洋服や申請すれば家まで建ててもらえる、そのすべてはこの条約に始まり、この条約の原文はナバホ政府が運営する博物館で今でも見ることができます。

 

収容所に入れられていたナバホ族の人々が解放された1868年、ナバホ族のリザベーションの中心部にはホピ族が住んでしまっていました。

ここから、ナバホ族とホピ族はいまだにお互いを良く思っていません。

 

アメリカとネイティブアメリカンの歴史には、VSスペイン人、VSアメリカ人、VS他のネイティブアメリカンの部族という複雑な歴史があり、それを各部族が自分たちの言い分を通しながら、今も続いている。その壮大な歴史を知ると今も続く色々な矛盾点もわかってきます。

 

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