先日の記事を書いていて昔のノートを引っ張り出して復習していたら、歴史について少し書いておいた方がいいなと思いました。
この話は↑の記事の続きで、スペイン人がアメリカ大陸に入ってきてからの歴史。
歴史とか難しい話になると急に敷居が高いような気がして「私は大丈夫でーす。」って思っちゃう人が多いと思うのだけど、なるべく簡単にわかりやすくまとめたいと思います!
1491年コロンブスの大陸発見~1692年サンタフェ完全制圧
先日の記事では、
スペイン人がなぜアメリカ大陸に入ってきて、なぜ大陸にいた市民を征服させたかという理由。
を書きました。
ちなみに、サンタフェにエルドラドという有名なホテルがありますが、エルドラドとは「黄金」という意味。黄金の七都市の伝説から来ています。
そこから、ネイティブアメリカンVSスペイン人の戦いが続きます。
1588年。スペイン人がサンタフェの知事になる。
このエルモロ国定公園の記事に名前が刻まれている、オニャーテさんがサンタフェの知事になります。
その頃のサンタフェは、スペイン領ですから、「Santa Fe De Nuevo Mexico」と呼ばれていました。Nuevoとは新しい(NEW)という意味。ここで「ニューメキシコのサンタフェ」という町の名前になりました。
1598年。スペイン人によるプエブロ族の制圧
スペイン人がサンタフェ近郊のプエブロ族を制圧。(サンタフェ近郊のプエブロとは、タオス、サントドミンゴ、ナンベ、タスク、イスレタなどを含む10近い部族)
オニャーテさんは「プエブロの制圧」に従事し、特にアコマプエブロでは25歳以上の男の足を全部切り落とすという残虐な仕打ちをしたことでも知られます。
制圧というのは簡単に言えば、スペイン人がプエブロの人々を他のナバホ族やアパッチ族から守ることの代わりに言うことを聞かせていたということ。
※その頃から、ナバホ族とアパッチ族への反感を買わせるように教育していたとナバホ族の人々は言い、それを言い伝えられているプエブロの人々は今でもナバホ族とアパッチ族嫌いの人がたくさんいます。
その後1670年ごろまではスペイン人とプエブロの人々は「相対的な平和」が続いていたとされています。(実質的には制圧されていたということですね。)
1680年。プエブロの反乱
ニューメキシコの学校では必ず習う「プエブロの反乱」。
疫病や干ばつが続いたことで、ずっとその機会を待っていたプエブロ族がまとまってスペイン人に反乱を起こします。
主役はテワ族のPoPay(ポぺ)氏。舞台はサンタフェの北、Tasqueから始まり、タオス、からどんどん南下し、スペイン人はエルパソまで追いやられて事実上プエブロ族がスペイン人を追い出す形となります。
(プエブロ同士をつなぐ、ランナーという人が存在し、彼らが秘密の暗号を刻んだり結んだロープを持って反乱を起こす日や計画を言い伝えたそうです。)
1692年。スペイン人が街を取り戻す。
スペイン人が戻ってきて、再び戦い、スペイン人のディエゴ・デ・バスガルが街を取り戻します。
(サンタフェがプエブロ族のものだったは事実上この12年間のみ。)
そしてその後は、プエブロ族は事実上スペイン人に制圧されることとなります。
ニューメキシコ州の主要空港があるアルバカーキの街は、スペイン人によって1706年にできた町。
この様にスペイン人はプエブロ族を制圧しました。
スペイン人の人々はプエブロの少女たちを自分たちの息子たちと積極的に結婚させたそうです。
だから、サンタフェの近くのプエブロの人々の名前は「チャベス」とか「ロバト」とか、スペイン系の苗字が多い。
サンタフェの近くにあるプエブロの人々の村の中心には「カトリックの教会」が必ずあり、プエブロの人々はプエブロならではの儀式も行いながら、カトリック式の儀式も行います。
プエブロ族の人が良く言う言葉
「私たちはスペイン人と戦うことではなく、一緒に生きることを選んだ。」
このブログでもよく書く言葉ですが、こんな深い歴史の上で言われている言葉なのです。
アメリカ、ニューメキシコ州在住、居住歴10年。ナバホ族の夫とリザベーションで二人の子育てをしながらインディアンジュエリーにかかわる仕事をしています。インスタ、ツイッター、Facebook、Youtubeがありますがインスタが一番身近な感じかと。
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